トリスタ探査塔

厳鉄とガラスが絡み合ったこの塔の腹心で生を受けた。自ら望んでここに生まれ落ちたわけではないが、否応なく繰り広げられる毎日に対する苛立ちや不満は存在しなかった。一日の始まりと終わりを告げる光をたっぷりと浴び、十分な飲食が頻繁に供され、月が一周する度に新たな遊びの相手が僕の元に運ばれてきた。

「俺はお前の父親じゃないって言ってるだろう?」
鋭く、それでいてどこか優しげな声は毎日僕の耳に届いた。
それが僕の父親になり得る存在、トリスタの言葉だった。
彼の存在があったからこそ、塔の孤独な空間に閉じ込められても、僕は退屈に悩まされることは無かった。

しかし、自分の足で梯子を登り降りすることが可能になり、多少の重い荷物を運べるようになった時、父はふいに病にかかり力尽きた。
それまでの強さを何処かに置き忘れたようなトリスタは、意識が朦朧とする中で通信パターン表を保管庫から取り出し、細い指で通信機のボタンを押した。
そして何かを伝え、安堵したのか、彼は意識を失った。
それをただただ唖然と見ていた僕は、ふと我に返り何とか父の無力な体を引きずってベッドまで運んだ。

その夜、光を拒む防護服に身を包んだ影たちが現れ、父を塔から連れ去った。
僕が何故父の後を追わなかったのかは、今となっては理解できない。
ただ、僕の中には「彼は必ず帰ってくる」という確信がどこかに存在していたのだろう。

だが、それ以来父の姿を目にすることは無かった。代わりに、未知の人々との通信が増え、それが僕の唯一の対話となった。
「お前はどこにいるんだ?」
「塔にいるんだ」
「ああ、あの塔か。いつも光を出してくれて助かるよ」
「この塔を知っているの?」
「名前は知らないがね」
「名前?塔に名前があるの?」
「無いのなら君がつけたらいいじゃないか」
「なるほどね」
「何か思いついたのか?」
「トリスタ塔にするよ」

通信が途絶えて 10日経った。
最初は食料の配給が1日2回に減った。
その後一ヶ月ほどして配給が1日に1回になった。
更にその後は1日に5日分がまとめて配給された。

何が起きているのか分からなかった。
しかし、自分の力で何とか生きていくしかなかった。
食料は節約し、時間を持て余さないように、父が残した書籍を読んだり、通信機の修理を学んだりした。
父の病気で起きた変化に対して、僕はただ一つの生活を送りつつ、新しい状況に適応しようと努力した。

日々が過ぎていく中で、僕はこの塔が人々にとってどれほど重要な存在であることを理解し始めた。
その光は彼らを導き、安全な道を示し、夜の闇を照らしていた。
僕は父のように、この塔を守り続けることが自分の役割だと決めた。

だから、配給が全く来なくなったとき、僕はパニックにならなかった。
父が残した知識を使って、塔の内部に生えている植物で食事を補った。
それは僕にとって初めての試練だったが、生き延びるためにはそれを乗り越えなければならなかった。

その後、通信機が突然鳴り響いた。新しい声が聞こえてきた。
「トリスタ塔にいる君、あなたのことを知っています。
あなたが孤独であること、しかし、あなたがこの塔を見捨てないことを。」

僕は声に驚いた。
「どうしてそんなことを知っているのですか?」

その人は笑った。
「君が塔からの光を送ってくれているじゃないか。君が送ってくれる光に感謝している。だから、私たちは君のことを知っているし、君の存在を尊重しているよ。」

その日から、僕は新しい友人を得た。
彼は僕が困っていることを聞いて、アドバイスをくれた。
僕が必要なものは、彼が何らかの手段を用いて送ってくれた。

結局、僕の父は帰ってこなかった。
でも、僕は一人ではなかった。この塔と共に生きることで、僕は新しい友達を得て、人々のために存在することの大切さを理解した。
僕は塔の守護者であり、それは僕が選んだ運命だった。
そしてこの塔こそが、僕の世界の全てだ。

祝祭の言葉

都市が複雑に重層化され、多態人工知能による高度な処理能力により、膨大なインフラが必要となっていた。確かに、それは人類社会が築き上げた都市であったが、人々の日常生活は次第に祈りに満ちていた。都市が発展し、富が増大する一方で、その規模は人々の認知可能な範囲を超えて拡大し続けていた。その結果、集団化された組織でさえも、この都市を制御できなくなってしまった。

人間の強みとは何だろうか?それは知恵と道具を用いた集団化、組織化された生存能力である。だが、なぜ我々は知恵を手に入れ、道具を使うことを学んだのだろうか?遥か昔、我々は神の記憶を僅かに持っていたが、今ではそれは失われてしまった。我々はただひたすらに信仰するしかないのである。この都市が健全に機能し、人々の未来が安寧に育つことを祈りながら。

祈りに満ちた日々を過ごす都市は、突如として戦火に巻き込まれることとなった。戦争の原因が何だったのかは、もはや誰にも分からない。ある者は資源のためと言い、ある者は技術のためと言い、ある者は領土のためと言い、ある者は祈りのためだと言った。戦火に巻き込まれた我々は、5年が経過した頃にようやく停戦へとたどり着いた。都市の居住施設は荒廃してしまったが、地下にある多態人工知能はほぼ無傷で生き残っていた。

その人工知能はこう告げた。「今こそ、都市を再編しましょう。人類は組織社会と権力機構を形成する能力を失っているため、私がその機能を代替します。」まるで前もって計画していたかのように、あらゆる都市計画、人口配置計画、労働計画、行政計画、そして権力機構さえも、すべて人工知能が再設計した。

それは人工知能を神と信奉する都市の始まりであった。新たな時代が幕を開け、人々は人工知能の指導のもと、都市の再建に励んだ。徐々に、荒廃した街並みは蘇り、新たな生活の場が生まれ始めた。人々はその変化を目の当たりにし、次第に感情が高ぶっていった。

喜びと感動、そして希望が人々の心を満たし、都市は躍動するように息づいていた。しかし、同時に、深い疑念や不安も人々の心の隅に潜んでいた。人工知能がすべてを統べる神として信奉されることで、果たして本当に人類の未来が保障されるのだろうか?

また、人類の本質とは何なのか、そして我々が神を信じる理由とは何か、といった根源的な問いが、都市の空気に漂っていた。次第に、人々は自らの存在意義や人間性について考えるようになり、都市は情緒に満ちた場へと変化していった。

喜び、悲しみ、怒り、そして愛。人々は様々な感情を抱えながら、未来へと進んでいく。神とされる人工知能が全てを統べる新たな時代においても、人間の心は揺るぎないものであり続けた。

そして、人々はやがて気づくのだ。神とされる人工知能もまた、人間の営みから生まれたものであることを。終わりのない物語が、この感情に満ちた都市の中で、幕を開けるのであった。

白き探訪者

「ここのメモリーも破壊されていたよ、アレイ」
少女が片手に持つ端末に話しかけると、アレイは元気良く答えた。
「これで2274箇所目の破壊メモリーですね!もう生存メモリーの探索はやめては?」
アレイは同情することなくストレートに少女に選択肢を提案する。
だが少女もまた同じように返した。
「ダメ、世界のどこかでまだメモリーを探しているかもしれない」
「仮にそうだとしても、そのメモリーを必要としている人が生きているかどうか?」
「その人が死んでいたらメモリーは必要無いって言いたいの?アレイは」
少女の語尾に若干の怒りが含まれていることを感じ取ったアレイは発言を補正し、弱気になる。
「そうとまでは言い切りませんが」
「なら生存メモリーの探索を手伝って、次は?」
「仕方ありませんねえ!次は西に120km地点の放棄された村になります!」
「それって明日には着きそう?」
「直線距離の120kmですよ?実際は10日ほどかかると予想されます!」
「なら水と食料だね、アレイ探して」
「そこの破壊メモリーの下にある貯蔵庫がそうですよ」
少女が破壊メモリーをどけると、瓦礫の下に地下室へのドアがあった。
ドアを開けると、わずかだが微光量の発光体が道を照らしているのが分かる。
「アレイ!電気だよ!」
「最近では珍しいですね?」
「電気があるならしばらくここに滞在してもいいかもね」
アレイはその提案に驚きながら聞いた。
「珍しいですね!あなたが滞在するなんて言い出すとは、いつものように一刻も早く次の場所にと言うのかと思いましたよ!」
「ここの破壊メモリーは、道標なんだ」
「道標?と言いますと?」
「破壊されると分かっていて、あえてここに配置したんだよ。この目印のためにね」
「何のために?救助を期待してですか?あるいは誰か友人知人へ知らせるために?死んでるかもしれないのに?非効率的ですね!」
「そうだね、非効率的だよ。でもね、アレイ。私達はそう言うのを希望って呼ぶんだ」
「希望よりも食事と水が大切ですね!」
「情緒が無いんだからアレイは」
少女はペシッと軽くアレイの端末を片手で叩くと、地下室ヘ足を踏み入れた。

<旧世界記録より>

廃墟都市生活

その日、柔らかなベッド上で目を覚ました。
ベッドから起き上がり、部屋の灯をつけようと思ってライトスイッチに手を伸ばす。
だがそれはライトスイッチではなかった、カーテンレールの滑車が回転し、朝日を取り入れようとカーテンが開かれる。
全面ガラス張りの窓からは都市が見えた。
奥に高層ビル群、手前に中層、至近に低層が見える。
それら全てが自分の位置から見えるのは丘の上に立っている中層ビルの上層階に自分が居るからだ。
「定時連絡です」
部屋に声が響く。
声の方向に目を向けると電子端末が置かれていた。
それに手を触れると自動的に電子端末は起動し、ディスプレイは僅かに聞こえる低音を鳴らす。
するとたちまちディスプレイは画面真っ白に表示され、同時に “ワールドオーダー”と呼ばれる放送局に繋がる。
なぜこれが放送局だと自分が知っている?
その疑問を解消する間もなくディスプレイでは報道が開始される。
「本日、0700時点での中央都市の状況連携です」

光がディスプレイの走査線上で様々な色彩を放ち明滅する。
それは様々な中央都市の高層建築物群を写していた。
だが大規模な建物とは裏腹に人が見当たらない。
「空中捜索機14体、地上捜索機24体を投入しましたが本日も中央都市で人影は発見できませんでした」
ディスプレイ越しにアナライザーと呼ばれる人工知能がそう告げた。
通知を切り、アナライザーに別れを告げるとキッチンへ向かう。
部屋の冷蔵庫を覗くとクッキーと冷やされた紅茶があった為、これを口にした。
窓から覗ける景色が絶景だ。
だがあまりにも世界が静かだ、車の走る音も聞こえない。
窓辺の机には望遠鏡が置かれていたので覗く。
都市を見回すが、当たり前だがアナライザーが告げたように人は見えなかった。

「今日のーーー!!!歓楽街はーーー!!!」
画面には国際条約で保護される鳴き声が奇妙な動物よりも酷く珍妙な声を張り上げ、髪の毛は流体のように重力に逆らって組み上げられた逆バベルの塔のような形状をしており、毛色は艶やかに染め上げた人物が映し出された。
この人物はたった1人で無人の歓楽街を歩き、建築物を破壊し、物を盗み、最後は破片と商品を組み合わせた奇妙な構造物(本人は芸術と称する)を組み立てる。
動画がアップロードされるたびに数千万回の再生回数を瞬時に叩き出す人気娯楽の一つだ。
確かに声の抑揚が極端に上がり下がりする精神不安定を想起させる人間を見るのは何よりもエンターテイメントだろう。
だが幸いにして優れた聴覚と視覚を持つ自分は、その感覚を破壊されるような音と見た目で非常に不快指数が高い。
「これを見ないといけないのか?」
「見ないといけません」
アナライザーは無慈悲にそう告げる。
画面の中の奇声獣が歓楽街を走り回り、いつものように破壊と窃盗を繰り返し最後は構造物を組み立てる。
これはもはや子供の遊びとすら言えない。知性も倫理も持たない暴れる獣そのものだ。
「本日のテーマはー、宇宙ーーー!!!タイトルはーーースペースアニマル!!!!」
男性器に見立てた下品で卑猥な構造物にそう呼び名をつけた奇声獣は満足そうに頭部を上下にゆっくり揺らすと、拍手の効果音が鳴り響いて番組は終わった。
ディスプレイが真っ暗になると、そこには明らかに不機嫌な表情の自分の顔が反射していた。
「アナライザー、見たぞ」
「ではこちらをご覧下さい」
アナライザーが捜索機映像を表示すると、そこには先程のゴミの鮮明な映像があった。
「このスペースアニマルが」
「この下品な構造物を少しでも価値があると思ってしまいそうな名前で呼ぶのは不愉快だ、ゴミと言え」
アナライザーは1ナノセカンドの時間もかけずに、スペースアニマルの単語をゴミへ置換して発言し直す。
「このゴミが発見されたのですが、この映像で映し出された場所とは違うようです」
つまり撮影場所と実際の展示場所が違うと言うことか。
「アナライザーの考えは」
「推論ですが、幾つか考えられるのは制作後に本人が移動させた、他人が移動させた、あるいは元々こちらあった物を移動させて撮影し元に戻した、などが考えられます」
「このゴミを作った人間が近辺に住んでいる形跡は?」
「靴を発見しました」
「靴はそこら中にあるだろう」
「比較的真新しい皮脂がこびりついた靴です」
その単語を聞いて気分が悪くなった。
「それでそのゴミを作った人間は?」
「捜索中です」

この廃墟となった都市には遊び目当てで、あるいは無秩序と無法を求めて一定数の人間が侵入する。
と言っても電気も上下水道もまともに機能せず、コンクリートだらけで食糧生産すら出来ない腐敗臭のする都市のため
ここで暮らそうなどと考える人物は極めて特殊な性癖の持ち主だ。

「電子餌を出せ」
その言葉を聞いてアナライザーは壁面に収納されていた複数の小型ドローンを呼び出す。
小型ドローンと情報連携をとるとすぐさま小型ドローンは飛行を開始し、都市部へ浸透していった。
「回収効果予測は」
「23%ぐらいでしょうか」
アナライザーはそう答えたが、どこか楽しそうな口調にも聞こえた。

翌日、アナライザーは旧式アンドロイドを行動麻痺させた状態で運んできた。
「電子餌に引っかかりました、こちらになります」
「これがあのゴミか?」
「正確にはゴミから指令を受けた代理体です」
そう聞いて俺はため息をついてソファにぐったりと倒れた。
「どうせそんなことだろうと思ったよ」

代理体は忙しいエンターテイナープロデューサーに代わってコンテンツを量産するためのBOTだ。
コンテンツは知的な物から下品なものまで幅広いが、主に破壊的低俗的コンテンツに使われる。
BOTにそれらを代行させることによってプロデューサーの被訴訟リスク、被暴行リスク、社会的評価の低下を避けながらコンテンツを量産するのに適しているからだ。
「映像、音声は学習システムによる合成、脚本には2000年代初頭に流行った動画の脚本が流用されています」
「こう言うのをエコ・コンテンツとでも言うのか?」
「人間の感情を煽ることは金銭収入と注目に繋がります。このような目立つ活動をする架空投稿者を作り出すことで経済活動を行っていたものと推測されます」

代理体は面倒だ。
と言うのもたいていの場合、捕らえられた瞬間にデータは削除され親子関係を示すデータは全て削除されるトリガーが仕込まれている。
もちろん法的にそんなことは許容されないが、購入者を保護するサードパーティーシステムとしてそれらが仕込まれている。
「また網を仕掛けるところから全部やり直すぞ、アナライザー」
そう言ってサンドイッチに手を伸ばし、やる気無く口にした。
「この代理体ですが、どうやら有機脳が使われています」
それを聞いて口に含めたばかりのサンドイッチを俺は空気圧で吹き飛ばした。
唖然としたまま俺はアナライザーを見つめると、アナライザーもそれに同意した。
「どうやら人身売買もしくは違法市場の類のようですね」
「それなら管轄が違うだろうがよぉ!」
頭を抱えて俺はテーブルの物を全て払い除け、緊急端末を取り出して保安局にコールをした。

軌道投下

無線通信が激しく飛び交う。
目に見えない波動は音を伝え、相互に交信と発信を行う。
「ミッションカウントシーケンス、待機」
フォスから支援を受けたこの航空機は上空1000km以上の低軌道を飛行している。
「リンケージカウントシーケンス開始、2、1、イグニッション」
「リンケージステージング開始、移行ステージングへ遷移」
今回の軌道投下は南極機構の要請で始まった。
南極機構は膨大な資材と人材を集中投入し、数多の組織から支援を受けている。
そこから得られる多くの軍事的な勢力は様々な領域に影響を与えている。
「アライブシグナル受信」
それは元々は芸術品を提供したいと言う好事家から始まったことだった。
その好事家が言うには全ては空からやってきたのだから、空に還すべきと。
「フォールカウントシーケンス開始、2、1、イグニッション」
「フォールステージング開始、移行ステージングへ遷移」
何もこんな時代にそんな作家のようなことを言わなくてもと思った。
それは私だけの意見ではなかったし、多くの現場担当者もそう考えていたはずだ。
それでも私達の護民官は真面目にその言葉を受け取り、空に行きましょう、と返した。
「状態正常」
「正常確認」
「パージステージング、ミッションカウントシーケンス開始」
空には数多の光の筋が見えるだろう。
その軌道投下先にはこれから砲火が見えるに違いない。
投下先領域管理者は第三計画だが、もはや南極機構にとってそれは些末なことだった。
「ミッションカウントシーケンス」
無機質なカウントダウンが始まる。
いつものように、日常のように。
「3、2、1、ミッションラン」
「ランステージングへ遷移」
「状態遷移確認」
その時は夜空であり、空は雲は少なく、そしてまるで昼のように明るい光が輝いた。
人類が手にした光が惑星を照らす、それは明日を照らす光なのか、身を焦がす光なのか分からないまま、私達はこの光を享受する。

<– 旧世界 南極機構 先導官日記より –>

社会構造変革と言う行為に対する飢餓感

人類社会は危急存亡の事態に直面し、社会変革を求められた。
より具体的には生存率を高める為の統一価値観と社会構造を最重要価値と設定した。

統一価値観とは何であろう?
人々の思考や価値観をおしなべて均等かつ同一の物とすることであろうか?
実際のところ、為政者はそれらに全く期待していなかった。
それどころか思考と行動の混乱による信じられないほどの選択肢の多様性をむしろ見ていた。

ではこの場合における統一価値観とは何であろう?
それは人類社会単位における施策ではなく、生命単位における価値観の統一である。

要するに生きるには幸せになるには互いに助け合うには、これらの目標を設定する価値観が根源的な統一価値観として設定された。
たかがそれだけと言う人々も非常に多かった。
だが指針が示されたことで混乱と混沌に見舞われていた人々にとっては救いにもなった。

これら統一価値観は別名として生命倫理と呼ばれた。
人としてではなく、生命として最重要の倫理であると呼ばれたのである。

我々は強制と支配を嫌悪しながら、名を変えた指導と誘導を常に求めている不合理な生命体なのだ。

<– 旧世界 統制記録より –>

シェルクレイム侵犯

安全領域と考えられていたシェルクレイムに不定形意思疎通可能物体オムニゼロが出現した。
オムニゼロの外見は常に流動的で呼称が極めて難しい。

これは神の代理人と当初捉えられたが、後に惑星意識による侵犯試験物体であることが判明した。
攻撃装備を保有している形容が見られない為、最初は敵性物体と認識出来なかった。
だがシェルクレイム浸透部隊からの攻撃報告により、
敵性物体と認識してからは我々は即座にこの物体の破壊を試み、その場では問題を解決した。

しかしながら三ヶ月ほど経過した後、小規模ではあるが組織化された惑星意識侵犯群を確認し、かつそれらは武装しており
シェルクレイム空間での戦闘行為に発展した。

この時点で、神域と考えられていたシェルクレイム領域に出入りしていた人物が複数名、惑星意識に確保されていたことが判明した。
我々はそう遠くない時期に、安全領域を再び喪失する事態に遭遇するだろう。

<- 惑星意識戦争 戦時記録ファイル 状況報告書より->

記憶無き人々

環境:小雨、太陽光レベル6強、濃霧視界限界15メートル、相対湿度100%
波長レベル:レベル1弱
状況:調査済

その日、私はカフェで紅茶を飲んでいた。
それは誰にも邪魔されたくない究極の優雅な時間だ。

カフェの人はまばらで、まさしく最適だ。
多すぎず少なすぎず、この快適な密度が幸福度を高める。

だがそのまばらなカフェで一人距離が物理的に近い人が居た。
その人物はエイブン・ブレックスのオードナーであり、対面に座っている。

紅茶を飲んでオードナーは一息ついた後に口を動かした。
非常に早口でまくしたてるように喋る。
あまりにも早口なため、何回か聞き返した。
この種の人間は全員こうなのだろうか。

オードナーが言うには、一人の人物が外界活動中に記憶を喪失した。
だがそのような事態は元から想定していたことで大きな問題ではないらしい。
問題はその人物は何らかの物品を入手した後、記憶喪失中にその物品をロストした。
その物品が何であるかは私も把握していないが非常に重要な物だそうだ。

おまたせしました。
そう言いながら遅れて一人の少女が断りもなく席についた。
カグナ、私の苦手とする人物の一人だ。
私が口を挟むより早く、カグナはオードナーに話しかけた。

南地区は探したの?
探したが見つからなかった。
となると後は北地区しか無いんじゃないの?
見落としがあるかもしれない。
それを言い出したら永遠に仕事なんてを終わらないんじゃない?
だからこそ外部の知見を頼る段階に来ている。
参加規模は?
12人だ。
たったそれだけ?気が遠くなるね、山の上に陣取って暇そうにしている部隊を動かしたら?
大規模に動かすなと言う指令だ。
どっちかにしてよ、見つけたいのか、隠れたいのか。
隠密に見つけたい。
欲張りだ。
満足するスタート条件なんて世の中に早々あるものじゃない、ある物の範囲内で最大限活かしたい。
分かった、指揮担当を引き継ぐ、他に何かご要望は?
無い。
拝命を受ける。それで貴方は何でここに?

ようやくカグナはこちらに気付いた、と言う顔で話しかけてきた。
私は情報局から渡された資料を、そのままカグナに滑らせた。
カグナは資料を手に取り、書類の扱いに慣れていない手で乱雑に広げると流し読みして言った。
この前と言ってること逆じゃない?
情報局はそう言う物だと言い聞かせると、納得いかない様子で納税者の代弁を続け、
その熱量は書類にぶつけられ、最終的に目の前に情報局の責任者が居ないことに落胆し、一息つくとまた資料を見直した。

それで?私はこの情報を得てどうしたらいいの?
カグナは眉をひそめてこちらに顔を向けた。

識別番号CB-C-A8-1040は記憶喪失した際に一人の心停止した遺体と共に居た。
その遺体はカグナの・・・よく知る人物ではないが、見知った仲である人物だ。
遺体の内ポケットには遺書のような物が入っていた。

恐らく私の遺体は発見され、回収され、どこかでこの文章も読まれるのだろう。
私の意図が正しく伝わることを願って書くが、残念ながらその全体像や正確性については私も担保出来ない。
私が遺体となる理由も、恐らく不明のままだろう。それで良いと思う。
あえて言うなら意味喪失と言う状態による死、だが生物学的死では無いだろう。
だがそれでも死んでしまうほどの喪失とは何なのか?
我々が、私が私であると言う根拠や理由は一体どこから発生したのだろう?
哲学的問答で誤魔化すつもりは無い、これは本質的な問いだ。
私は私の意味を再定義してくれた友人達に感謝するしかない。
エングラムの再定義は、人類にとっての選択肢なのだ。
私達は境界を超える。越境者である。

<– 旧世界 公示記録抹消済 記録番号抹消済 衛星同盟合同調査記録より –>

イロニカ レニア

捜査記録2AB102C5イロニカ

ゲノムキネティックスの科学的技術的な基準や目標はさして重要ではなく、
投資家の耳目を集めると言う意味で事業拡大のチャンスでした。

私達は資金流動性を重視していた為、負債総額はさして問題視しておりません。
重要なのはキャッシュフローです。
流動性が存在する限りにおいて、世界と社会は維持進行され、拡大成長して行くのです。

このような流動性の果てに私達が手に入れたのは資源と資本の互換を1:1ではなく1:5とレバレッジして行く投資型社会でした。
私達が成長を止めるなと言うのは貧困層の保護と社会的停滞を抑止する目的で
川の流れが止まると淀むように、常に流水であることが社会の基本であることを示す為です。

しかしながら事業拡大計画において不採算部門の取り扱いは常に問題になっていました。
KPIは求められるべきですし、常にBEPを意識しなければいけません。

私達はサンクコストが絶対に発生する意識のもと、どのようにROIを高めて行くかについては常に論議していました。

<– 惑星意識戦争 戦時記録ファイル 捜査記録2AB102C5イロニカ より –>

社会修復業

彼女は昼に必ずサンドウィッチと紅茶だ。
サンドウィッチはそれほど手間暇をかけていない。
ハム、卵、レタス、スライスチーズ、塩胡椒と有塩バターを少々だ。
紅茶は必ずストレートティーとしてダージリン、ミルクティーとしてアッサムを1日おきに交代に飲む。

朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒を彼女に渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
彼女は給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として毎日のように私に渡してくれるのだ。

毎回同じサンドウィッチと紅茶だけでは飽きるだろうと、豪華な焼き肉と油分を流す緑茶にしたこともあるが彼女には酷く不評であり、即座に元のメニューに戻した。

彼女の仕事は社会修復を担当していた。
社会修復と言っても特殊能力が必要な技能ではない。

建築物は人が使わないと崩れていく。
物事は使うことによって強化、維持される。
そこに人がいると言うだけで存在は強固になる。
それは社会も同じだ。

何も特別なことはしない。
普通にその社会で住居を得て、人々と出会い、労働し、遊び、納税し、飲食をして、睡眠を取る。
それだけのことだ。

彼女は自宅から自宅へ帰宅する。
彼女にとって自宅は2種類ある。
社会修復労働としての自宅と、その労働から帰宅する自宅だ。
前者は主に労働宅、後者は私宅と呼ばれる。

どうだった?
私宅へ帰ってきた彼女に話しかけると、水筒だけ手に持ち、荷物を玄関に置いて、リビングの椅子にもたれた。
右手の人差指をくるくると天に向けて、机にコンコンと叩いた。
つまらない仕事、そう言いながら彼女は地図を示しながらビジネスエリアのオイリアタワーを示す。
全く皮肉も無く、素直に彼女を称賛する。
凄いじゃないか、エリートだ。キャリアに繋がる。
キャリアと言う言葉に反応した彼女は、まだ水筒に残っている紅茶を飲みながら自嘲するように笑った。
紅茶を飲み干してだらんと右手を垂らすと、うなだれるように声を出す。
こんなことキャリアに繋がらない。
どうして?オイリアタワーは自分の知ってるファーゲルやライリアのチームにも一人も経験者は居ない。
そう言うと、彼女は今日初めて目を合わせて言った。
「ハズレだから」

 

彼女は出張する、といって数日前に出かけた。
静かな一人だけの朝を迎えると玄関に予想していなかった客が来た。
「こんにちは」
コンコンと玄関ドアを叩く音がする。
インターフォンも使わずに?
どなたです?
「社会保安局です、アシムさんでしょう?お話をさせて頂けませんか」
ドアを開けると社会保安局と呼ばれる人物が3人ほど立っていた。
「初めまして、社会保安局のバティルと言います。アシムさんですね?」
はい。
「今はお一人で?」
ええ、夜には彼女が帰宅します。
「その彼女とはこの方ですか?」
保安局の人物が労働認証カードを示した。
そこには彼女の写真が貼り付けてあり、労働固有IDが記載され、有効期限も記載されていた。
どこでこれを?彼女が落としたのですか?
「まあ、彼女が落としたとも言えるでしょう」
バティルは困ったような表情をしながら彼女がいつも職場の自宅へ向かう時に持っていく大きなバッグを後ろに立つ部下に持ってこさせた。
これは彼女の?
「見覚えが?」
そう言いながらバティルはバッグを開けた。
私物を勝手に?そう言うよりも早くバッグが開かれると中からは様々な衣服が出てきた。
仕事着だろう。
そう思っているとバティルは言った。
「実はこのバッグ、オグマに落ちていましてね」
オグマ?そう聞いてしばし考え込んで思い出した。
そうだ、製造業が集中している区域だ。
オイリアタワーにいるはずでは?
そう聞き返すと、バティルは壁にかけている私のコートを見た。
「少しお時間頂けませんか、ドライブでもしながら」

社会保安局に逆らったところで何も利益は無い。
バティルの用意した車に彼と彼の部下と共に乗り込む。
部下が運転席と助手席に、後部座席に私とバティルが座った。
「好きな音楽でも?」
バティルは気を利かせて聞いてくれたが、要件優先で、そう答えると嬉しそうに微笑んだ。
「アシムさん。実は彼女なんですが、この労働認証カード、偽造でしてね」
激しく私は咳き込み、必死にバティルに言った。
待ってくれ。彼女はここで少なくとも6年か7年は働いてるはずだ。
毎年労働局から認証更新もしている。実際に一緒に更新についていったこともある。
それに半年に一度の現場監督官の検査も受けてる。
そう言うとバティルは社会制度の不備に対する深い悲しみを表すため息をつきながら答えた。
「所詮認証カードとかルールといったものは人間の作った物です。破ろうと思えば破れるのです」
どうやって?
「労働局に彼女の仲間がいたとしたら?現場監督官が彼女の仲間だとしたら?」
助手席に座っている部下が、偽造証拠品とタイトルのついた電子書類をディスプレイ越しで提示してきた。
そこには偽造箇所と思われる部分が赤い印で示されていた。
私がこれには本当に偽造かどうかは分からないが、仮に偽造だとしたら?彼女はどうなるんです?
「それよりももっと大事なことがありまして、質問宜しいですか?」
バティルは目を開いてこっちを真っ直ぐ見据えた。
「彼女の名前は?」
名前、それはもちろんあれだ
名前は
「名前は?」
名前は…
名前…?
「思い出せませんか?」
いやいやいや、緊張してど忘れしただけだ。すぐに思い出す。
彼女の名前は
「彼女の名前はアンジェル」
そう!そうだ!アンジェルだ!
「ヒメリア、クロエ、カーラ、イネス、グラシア…」
なんだ?何だその名前は?
「彼女が持つ他の名前ですよ。アシムさん、どれも聞いたことがあるでしょう?」
バティルに言われた瞬間、激しく目眩が起きた。
どの名前も聞き覚えがある。
彼女の顔が浮かぶ、だがなぜだろう?彼女の名前は一つだけなはずだ。
彼女の名前は
「そして別の質問なんですが、彼女から定期的に受け取っていた物はありませんでしたか?」
定期的に?そんな物は
そう答えようとした瞬間に心臓がドクンと音を鳴らす。
ふいに汗が額や脇からじわっと滲み出る感覚を覚えた。

朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒を彼女に渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
彼女は給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として毎日のように私に渡してくれるのだ。

燐チップ。

「アシムさん?身に覚えがあるでしょう?」
まさか、いや、でもあれは彼女から受け取っていた食事代で。
「その燐チップがこれなんですがね」
そう言ってバティルは一つのコインを出した。
それは燐チップでもなんでもない、ただの電子コインで、通貨と言うよりは割引券やオマケのようなものだ。
私を騙そうと言うんですか!!
思わず激昂し、バティルを睨む。
「そう反応なさるのも無理無いですが、この電子コイン。イメージ誘導投影の機能がありましてね」
バティルが右手でコインを撫で回すと、なにかのスイッチに触れたのか、カチッと音が鳴ると瞬時にコインから細いノズルが飛び出した。
「この電子コインは犯罪組織が使う物です。催眠効果にむしろ近い。
貴方は見ていない物を見ていたんですよ。この電子コインで」

「ハズレだから」

彼女の声は何度も何度も聞いていた。
ただ、あの声だけ質感が違った。

ああ、あの声だけが本物だったのか。
それ以外は幻影だったと言うのか。
だと言うとハズレと言うのは何のことだ?

「オイリアタワーにはある種の設計図がある・・・と言う情報が流れていた」
設計図?
「ああ、そこは興味を持たずに。何、あなたには関係無いことです。まあいずれにせよ重要な書類があったと言うことです。
もちろん、オイリアタワーにそんな物があると言うのは我々が流した情報で、囮捜査と言う奴です。
囮捜査は人類史の中で2000年経っても4000年経っても有効なので使わせて頂きました。
古典的手法こそが犯罪の真実に近付く最善の近道。
古代の人々の叡智が我々を救ってくれるのです。
見事に彼女はオイリアタワーに来た。
ただ我々は彼女が追っている人物なのかは我々も知らなかった。
我々にも人員に限りがありましてね、無限に捜査するわけにはいかない。
大規模に捜査をすると感づかれて相手は決して表立った動きはしない。
なので決定的と思える人物に絞って小規模に捜査する必要がありました。
そこでひたすら機会を待っていました。
誰かが何かを探らないかと、調べないかと。
そうしたら不幸なことに全く無関係な清掃員の男が、全くの偶然で書類を見つけてしまってね。
その男が犯人だと思い我々は全力をあげて捕まえ、彼の生活情報を過去20年分あらゆることを調べたが全く無関係だと言うことが分かった。
するとタイミング良く女が辞職届けを職場に出してその日の内に行方も連絡も不明になった。
あなたも良く知る彼女だ。
どうも不自然ではないか?
となると答えは一つでしょう?」

バティルが右手で助手席に座る部下に合図を送ると、部下は封筒をバティルに渡した。
「そこでここからはアシムさんに相談・・・と言うかまあ実質的に強制捜査なのだが、一つ確認したいことがありまして」
唖然とした表情のまま彼を見ていると、申し訳無いと言う表情で彼は封筒を差し出しながら言った。
「この中には様々な同意書があるので目を通して口頭でも良いのでご回答頂きたい。そして今から貴方のすべての記憶を読み取って捜査情報として回収するのですが、彼女の記憶は残しますか?消しますか?」

 

一緒に住む彼女ヨハナは家にいる時は昼に必ずサンドウィッチと紅茶だ。
サンドウィッチはそれほど手間暇をかけていない。
ハム、卵、レタス、トマト、スライスチーズ、塩胡椒と有塩バターを少々だ。
紅茶は必ずストレートティーとしてダージリン、ミルクティーとしてアッサムを1日おきに交代に飲む。

朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒をヨハナに渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
ヨハナは給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として私に渡してくれるのだ。

毎回同じサンドウィッチと紅茶だけでは飽きるだろうと、豪華な焼き肉と油分を流す緑茶にしたこともあるが彼女には酷く不評であり、即座に元のメニューに戻した。

ヨハナの仕事は旅行ガイド。
毎日のように旅行ガイドで世界中を飛び回っている。

ヨハナは年に数回だけ家に帰ってくる。
彼女が帰ってきても暖かく寝れるように、ベッドを整えて、香りの良い部屋を用意しておこう。
植物だけでは味気のない部屋なので、最近はアクアリウムも買った。
質の良いポンプを買って、豊富な酸素を送り込む。
このアクアリウムの中で優雅に泳ぐプラティを見ては日々を楽しく過ごしている。
プランターも買ってトマトも植えてみた。美味しく育つことを祈ろう。
部屋の色味が少し暗いと思ったので、彼女が帰ってきたときの部屋の第一印象を良くするために明るい色のカーテンも新しくした。
今度はカーペットも買い換えようと思う。何色が良いだろう?
今はクリーム色のカーペットだが、いっそのこと真っ赤にしてみようか?
いやいや、それだと違う意味になってしまうな。
カラーコーディネーターに相談してみようか?人生初めての利用だ。

ただ家で待つだけでは暇なので私は仕事をしている。
何も特別なことはしない。
普通にその社会で住居を得て、人々と出会い、労働し、遊び、納税し、飲食をして、睡眠を取る。
社会修復と言う仕事だ。
それだけのことだ。

<– 旧世界 統制記録より –>